仕入日記:名尾手すき和紙【前編】
酷暑続きの8月某日、佐賀にある和紙工房を訪ねました。
「名尾手すき和紙」です。
糸島から佐賀へと抜けるのに通る三瀬に大きな看板があり、いつか行かなくてはと思っていました。
博多山笠の提灯など伝統行事で使われるもの、地元佐賀の学校の卒業証書、日光東照宮の修繕用など、名尾和紙の仕事は多岐に渡ります。
山中にあるのですが、最盛期の昭和初期には100軒もの和紙工房があったのだそう。
300年ほど前、地域で農産物が育ちにくいことから何か新しい産業をと始まったのがその興りで、技術は八女(福岡)の筑後和紙から学びました。
和紙の工房はその営業形態として、そもそも2種類に分かれます。
藩主に収めるか、問屋に卸すか。
名尾和紙は前述の通り住民が自主的に始めたことなので、そのどちらにも属さない特殊な産地。
その分自由度が高かったようで、注文に応じて様々な紙を漉いてきたそうです。
しかし150年ほど前、洋紙が日本に入ってきます。
それまで単に「紙」だったものが、「和紙」と名付けられたのもこの頃。
ほかの手工芸品と同様、紙もまた外来品に押されて国産品の需要が減少し、名尾和紙の工房も徐々に減っていきます。
そんな中でなぜここだけが残れたのか?
お話を伺った谷口弦さん(社長のご子息/7代目)曰く、提灯紙を漉いていたからではないか、とのこと。
名尾和紙の最盛期、数ある工房はそれぞれ役割分担をしていました。
障子紙だけを漉く工房が10軒、提灯紙専門が10軒、という具合に。
その中で提灯紙は、光を透過させる薄さと持ち運んでも壊れにくい丈夫さ、相反する要素が求められる紙です。
つまり高い技術が必要で、洋紙では賄えないものでした。
そのため仕事が途絶えなかったのです。
徐々に周囲の工房が閉鎖していく中、緩やかに技術の伝承も進みます。
それまで漉いていなかったありとあらゆる和紙を必要に応じて漉くようになった結果、様々な技術が集約されていったのです。
そもそも藩主や問屋が介していなかったことに加え、最後の1軒ということはここには組合も存在しません。
自由な発想と工夫で仕事をしていくことは、自然な流れだったようです。
しかも「代々ものづくりが好きな家系なんですよね」と7代目。
工房を初めて訪ねた時、売店の多種多様な品々には驚かされました。
厚さ、色、漉き込む素材、用途も様々。
中にはギャラリーのような一角もあり、アート作品まで飾ってありました。
てっきり7代目が始めたことかと思いきや、6代目であるお父上の仕事だそうで。
なるほど、そういう家系なわけですね。
伝統を重んじる工芸品の世界でここまで自由度の高い仕事の仕方は、稀なことです。
ただその一方で、お話の中で何度も7代目が口にした事が印象に残りました。
「何をしたとしても、原料を栽培して紙を漉くという、基本的なことはずっと同じです」
そこがブレない限りこの工房は大丈夫そうだな、と感じました。
さて長くなったのでこの辺でひと区切り。
工房の見学もさせて頂いたので、後編では紙漉きの工程について書きます。
名尾手すき和紙の商品はONLINE SHOPでご覧ください。